『禅』
慈恵院は禅宗のお寺です。
禅宗は日本では三派ありまして、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(おうばくしゅう)がそれです。
慈恵院は三派の中で、臨済宗のお寺です。
三派に分かれていますが、細部に違いがあるだけで基本的なことは同じです。
ちなみに臨済さんは黄檗さんの弟子ですし、日本曹洞宗の祖である道元さんは、日本臨済宗の祖栄西さんの弟子に教えを受けています。
今日は禅宗について書いてみようと思いました。
ここで文章に違和感を覚えたそこのあなた。正解です。
いきなり「書いてみようと思いました」過去形になってます。変ですね。
書いてみようと思いましたが、書けないし書かない方がよさそう。こうなりました。
まあ話半分に読んでください。
「禅」は言葉にした瞬間に消えてなくなります。
これ以上でもこれ以下でもありません。もう手が出せません。
好きな小説に、何でも知っている歩く百科全書みたいな人がいます。
そのシリーズに禅寺が舞台の話があるのですが、何でも知ってるとしか思えないこの人でさえ、禅宗の教えについて何も語りませんでした。
歴史的事実や宗教学者が話す内容までは説明がありましたが、禅を語ることの無意味さや間違いを理由に頑なに口を閉じてましたね。まぁ物語が完結しないので、クライマックスで嫌々禅問答していましたが。
ゾウやクジラを見たことのない人に、これらを初めて見た時の気持ちを口で説明してください。
どこまで伝わるでしょう? ゾウの臭いは伝えられましたか? 歩く振動は?
その時の感情を口で説明してもかなり誤解が生じると思います。
私の好きな歌の歌詞に「言葉にできないもの。それこそが言葉です」というものがあります。
伝えられない言葉や感情を文字に起こすと誤解が生じますし、体験するしかないみたいです。
自分にとってはこの感覚は当たり前なんですが、わからない人がいます。ありていに言えばある友達です。
彼とは思考回路や知識は似ているのですが、それでも”禅は言葉にできない”という部分は理解されませんでした。
まぁ平行線になるのが判りきっていたので、お互い自説を引きましたが。
最後にエピソードを一つ紹介します。
黄檗禅師がある時、仏の前で拝をしている姿を時の権力者が見て、何をしているのか尋ねました。
これに”見たまま”だと答えました。
権力者は”仏に祈ってるのか?”と再び尋ねました。
黄檗禅師は答えます。”ただ拝をしているのだ”と。
おそらくこれが禅の一端です。
慈恵院・僧侶
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